100の論点:97. 戦争体験を次の世代が共有するための装置──平和博物館──について教えてください。

 人間がある行為を選択する場合、過去にとった同類の行為の結果についての認識は重要な役割を果たします。私たちは、過去に手ひどい結果を招いた行為は二度と繰り返すまいと考えるのが普通です。戦争は、通常、そのような行為の一つであり、戦争がなぜ、どのようにして起こり、どのような結末をもたらしたのかについて知ることは、安全保障上の問題を考える場合にも重要です。

 戦争の記憶は、体験者の証言を通じて戦争を知らない世代にも伝えられてきましたし、それは、空襲や沖縄戦や原爆などの被害の面だけでなく、前線に送られた兵士の反人間的加害体験も含めて、その後の世代の戦争に関する意識形成に少なからぬインパクトを与えてきました。

 しかし、「個の記憶」は人の命とともに消滅しますので、これを「社会的記憶」として保全するために、体験談・詩歌作品・記録写真などの出版や、ドキュメント映画の制作、教科書への反映など、様々な努力が重ねられてきました。そして、日本には、そのような「記憶の社会化」の一環として図書館・博物館・資料館・美術館などがあり、戦争や平和の問題に特化した施設だけでも、公立・民立合わせて70館余の祈念館・資料館・博物館などがあります。

 戦争には加害と被害の両面がありますが、その描き方は博物館によって大きく異なります。筆者が名誉館長を務める立命館大学国際平和ミュージアムは、「過去と誠実に向き合う」を展示原則として、加害と被害の両面を扱う努力をしてきました。多くの博物館が、程度の差はあっても、沖縄戦や都市空襲や原爆投下などの国土の戦場化に先立って日本軍が行なった加害の歴史を展示しています。

 しかし、今、ピースおおさか(大阪国際平和センター)のように、為政者の歴史観・価値観を反映して、これまで展示されていた南京事件を含む加害の歴史を全面的に殺ぎ落とし、大阪に対する都市空襲被害に特化する展示への転換が図られた施設もあります。被害の事実を知ることも大切ですが、それは戦争の一面でしかないことは紛れもない事実です。加害に目を閉ざし、被害にばかり目を向ければ、被害を与えた側に対する憎しみを募らせて、国土の戦場化を招いた自らの加害責任を棚上げにする極めて偏った戦争観を植えつけかねません。

 安保法制を強行した現政権の「カーテンの陰」には「日本会議」の存在が取り沙汰されていますが、同会議は、「皇室を敬愛するさまざまな国民運動」のもとで「外国製の憲法ではなく、新しい時代にふさわしい憲法の制定」を求めています。そして、「行き過ぎた権利偏重の教育、わが国の歴史を悪しざまに断罪する自虐的な歴史教育、ジェンダーフリー教育の横行は、次代をになう子供達のみずみずしい感性をマヒさせ、国への誇りや責任感を奪っています」などと主張しています。平和博物館が、南京虐殺事件や731部隊などの日本軍による加害行為や慰安婦問題を扱う展示を企画すれば、それこそ「わが国の歴史を悪しざまに断罪する自虐的な歴史教育」と「悪しざまに断罪され」、変更を迫られる懸念もあるでしょう。

 安保法制論議の最中の政権党の「勉強会」では、新聞社潰しまで声高に叫ばれ、言論の自由や表現の自由が危機に瀕している兆候が見られましたが、極めて反民主主義的かつ暴力的なやり方で安保法制を強行した政権党の延長線上では、ピースおおさかについて起こったような平和博物館の変質を迫る攻撃が、公立の平和博物館を中心に一層激化するのではないかと危惧されますし、「積極的平和主義」の名において展開される自衛隊の海外活動を紹介する展示の推進など、平和博物館が、日本国憲法の平和主義の理念を実質的に突き崩す方向で変質させられる恐れも現実のものとなるでしょう。

 「過去に目を閉ざす者は、現代においても同じ過ちを犯す恐れがある」というリヒヤルト・フォン・ヴァイツゼッカー統一ドイツ初代大統領の言葉を引用するまでもなく、こうした状況は大変危険な方向というべきではないでしょうか。(安斎育郎)

 

参考文献

安斎育郎「日本平和学会と平和博物館の連携の可能性」『立命館平和研究』15号(立命館大学国際平和ミュージアム、2014年3月)、pp.21-32.

日本会議について

http://www.nipponkaigi.org/about/mokuteki