100の論点:92. 沖縄の平和運動はどのようなものだったでしょうか。

 沖縄の平和運動の歴史は長く多様です。安保法制の成立後の今、沖縄の平和運動から何を学び直すのかという視点から、その特徴を述べたいと思います。

 第1に、沖縄の平和運動の1つの原点は戦争経験です。すなわち、膨大な死者を出し、生き残った者にとっても深い精神的・肉体的な傷をもたらした沖縄戦の経験です。沖縄戦経験者の多くが、戦争がいかなる破壊をもたらし人間を変えてしまうのか、そして、軍隊は住民を守らないということを訴え続けています。たとえば、「友軍」と呼ばれた日本軍兵士は、避難した住民(非戦闘員)の壕からの追い出し、住民の食糧の強奪、「スパイ」容疑での虐殺、集団「自決」への「先導」や「強要」などを行なったのです。また、日本「本土」での地上戦の時間を稼ぐために、あるいは日本の国体を守るために、沖縄は「捨て石」にされたのだとも語られています。この痛苦に基づき、戦争と軍隊への根源的な拒否の思想が培われ、沖縄戦を直接体験していない世代とも分有されていきました。

 第2に、沖縄の平和運動は、基地・軍隊を多角的に問い、軍事化に抵抗をつづけてきました。たとえば、基地・軍隊による暴力や被害の問題です。作家・目取真俊が「沖縄にとって、戦争が終わった後という意味での『戦後』は本当にあったのか」(『沖縄「戦後」ゼロ年』NHK出版、2005年)と問うたように、沖縄にとっての「戦後」とは基地・軍隊による占領と暴力の歴史であったといえます。また、沖縄は「戦後」も、米軍基地によって、米国の戦争と密接につながった土地となりました。米軍の直接統治下で行われた朝鮮戦争とベトナム戦争、1972年の沖縄「返還」以降のアフガニスタンやイラクでの戦争などは、沖縄の基地・軍隊が重要な役割を果たしてきました。それゆえ、沖縄の人々は、基地・軍隊による暴力と被害を問題化しただけでなく、自らが米国の戦争に加担することになる社会構造自体を問題化していきました。目の前の基地・軍隊を認めるということは、戦争に加担し、加害者になることだと認識されているのです。

 第3に、平和運動は非暴力主義、市民的不服従、直接行動をその特徴としています。たとえば、1950年代、土地の強制接収に抗議しつづけた伊江島の住民は、「人間性においては、生産者であるわれわれ農民の方が軍人に優っている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切である」との「陳情規定」を1954年にまとめています。人々は「米軍支配は不当である」という自らの主張の正当性と道理を徹底して訴え、非暴力直接行動によって表現したのです。伊江島の闘いは、強制接収された土地を取り返し、農民の耕作地へと戻し、米軍を追い込んいきました(阿波根昌鴻『米軍と農民』岩波書店、1973年)。また、現在、辺野古での米軍新基地建設や高江での米軍ヘリパッド建設をめぐって座り込みや阻止行動が続けられています。建設工事車両の前に立つ、座る、声をあげる、作業員などと言葉を交わし合うといった地道な行動の積み重ねによって、建設工事を確実に止め、遅らせています。非暴力主義とは無抵抗であるのではなく、現実をダイナミックに変革していく、暴力とは異なる力の行使なのです。その力は、近年、保革対立が前提としてあった沖縄の戦後政治構造を揺さぶり、「オール沖縄」と呼ばれる政治潮流をも生み出しているといえるのです。

 安保法制の成立によって日本の「平和国家」としての歴史が転換点をむかえたと言われます。しかし、沖縄の「戦後」史、そして、厚木、岩国、佐世保、三沢といった極度の軍事化を強いられている各地の「戦後」史をふまえるとき、日本を「平和国家」と規定すること自体が再考されるべきではないでしょうか。なぜなら、憲法9条に象徴される理念としての平和主義が共有される一方で、自衛隊の創設や海外派兵、日米安保体制の確立と維持・発展などによって、戦争と直結した国家がつくられてきたからです。戦争は未来の可能性としての話ではなく、既にこの戦後日本社会がコミットしてしまっていることなのです。だからこそ、私たちは戦争や基地・軍隊へのそれぞれの抵抗を鍛え直すために、沖縄の平和運動が積み重ねてきた思想と実践から学び直すことができるはずです。(大野光明)

 

参考文献

阿波根昌鴻『米軍と農民』岩波書店、1973年。

新崎盛暉『沖縄現代史』岩波書店、2005年。

目取真俊『沖縄「戦後」ゼロ年』NHK出版、2005年。

屋嘉比収『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす』世織書房、2009年。