安保法制をめぐる反対運動の特徴として、労働運動や学生運動などの経験を持たない、これまで平和運動に関わったことのない人々が多く参加していることが指摘されています。特に今回は、高校生までも含む若者たちや、若い母親たちが声を上げました。
しかし、このように日常政治運動に組織化されていない人々が、平和運動に参加し声を上げるというのは、決して今回が特別のケースではありません。それどころか、戦後70年とほぼ重なるくらい長い歴史を持つ日本の平和運動では、主なものは例外なくといってよいほど、「これまで平和運動に関わったことのない」一般市民たちが重要な役割を果たしてきました。
終戦からまもなく、米ソ冷戦の深刻化により再び戦争の危機がささやかれるようになったとき、いち早く戦争反対の声を上げたのは、労働組合の中でも婦人部の女性たちであり、その外側にあった一般の女性、母親たちでした。
また、戦後日本の平和運動の代名詞とも言うべき、広島・長崎を拠点とする原水爆禁止運動のきっかけとなったのは、原水爆実験の脅威を敏感に感じ取った東京杉並の主婦たちによる署名運動でした。
占領から独立にかけて、日本の多くの農漁村は、米軍基地に苦しめられていました。米軍基地の拡張や新設に反対して立ち上がったのは、先祖伝来の土地を奪われまいとする、生来極めて保守的な農漁村民たちでした。砂川闘争や内灘闘争で、一農漁村が、日米の政治権力を相手に成果を上げることができたのは、党派とは無縁な彼らの生活を守ろうとする必死の思いでした。
今回の安保法制反対運動の重要な特徴として、もう一つ挙げられるのは、憲法上の大原則の転換を国民に問うことなく、一内閣、与党の一存で決めてしまおうとする非立憲的手法に対する国民の憤りです。1960年の安保闘争が戦後最大の政治運動となったのは、安保改定の決め方における非民主主義的、強権的手法に対する国民の強い反発があったからでした。
戦後日本の平和運動は、大量の人命を損ねた痛切な戦争体験と、無謀な戦争をもたらした専制的・強権的な政治の復活を許さず民主主義を守り抜こうという市民の意思に支えられてきました。今回の安保法制反対運動でも、学生たちの運動が団体名に「自由と民主主義」を掲げ、ママたちの会が「だれの子どももころさせない」ことを合言葉とするなど、この伝統が引き継がれています。(藤原 修)
参考文献
藤原 修「日本の平和運動―思想・構造・機能」日本国際政治学会『国際政治』175号、2014年。
藤原 修「戦後日本平和運動の意義と課題」日本平和学会『平和研究』45号、2015年。