湾岸戦争後の日米安保体制は「日米安保体制のグローバル化」を目指してきました。1991年の湾岸戦争は、冷戦終結後に勃発した最初の武力紛争であり、ソ連の協力を取り付けたアメリカの主導する多国籍軍が、国連決議にもとづいてイラクを攻撃した戦争でした。アメリカは日本にも多国籍軍への自衛隊の参加を求めてきましたが、日米安保体制の適用範囲をこえる事態であり、憲法の制約もあって、資金と物資の提供にとどまりました。このためアメリカから「金は出すが、血は流さない」という批判を受けることになりました。停戦後、海上自衛隊の掃海部隊によるペルシャ湾の機雷掃海が行われました。
冷戦後の国際秩序の維持に消極的だという批判にこたえ、湾岸戦争の翌年1992年には国際平和協力法が制定され、カンボジアの国連平和維持活動に自衛隊が派遣されました。それはアメリカの主導する国際協調体制のもとで、冷戦後の世界を秩序づけていく政策に、寄りそっていくものでした。しかし、これら「国際貢献」の活動は、戦後日本の「専守防衛」政策の枠内で行われてきた、災害派遣や民生協力、不発弾処理などの非軍事的活動をグローバル化したものであり、自衛隊の活動はグローバル化しても、直ちに日米安保体制のグローバル化につながるものではありませんでした。
1993年から94年の北朝鮮核危機や95年の台湾海峡危機は、日米安保体制の軍事同盟としての側面を再認識させるものとなり、日米安保体制の再編と自衛隊の役割の強化がはかられ、日米の軍事的一体化が進みました。2001年の9.11同時多発テロを契機に、アメリカを中心とした国際秩序の維持に、より直接的な貢献が求められるようになり、同年のアフガニスタン戦争では、テロ対策特措法によるインド洋での給油活動のために、海上自衛隊が派遣されました。2003年のイラク戦争では、イラク特措法によって、停戦後の「復興支援」の名目で、陸上自衛隊と航空自衛隊が派遣されました。
このように「非戦闘地域」における自衛隊の活動のグローバル化は、アメリカを中心とした国際秩序に寄りそう形で、着実に進んできました。集団的自衛権の行使が認められると、戦闘地域における自衛隊の武力行使がグローバル化することになり、「日米安保体制のグローバル化」は新しい段階を迎えることになります。(内藤 酬)
参考文献
・前田哲男『自衛隊――変容のゆくえ』岩波新書、2007年
・五百旗頭真編『日米関係史』有斐閣、2008年
・遠藤誠治編『日米安保と自衛隊』岩波書店、2015年